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「秩父宮ラグビー場」について少し調べてみた

「少し調べてみた」シリーズ第二弾です笑

来週日曜日は秩父宮ラグビー場ラグビーリーグ観戦ということで、少し秩父宮ラグビー場の歴史を紐解いてみました。と言っても大半がwikipediaからの引用で、私が理解しやすいように一部削改変させて頂きました。


秩父宮ラグビー場の歴史>
戦前の関東のラグビーの試合は、明治神宮競技場を専用グラウンドに近い状態
で使用していたが、戦後はアメリカ軍が接収して「ナイルキニックスタジアム」と名称変更して占有した結果、日本国民は自由に使うことができなくなり神宮球場や後楽園球場(現東京ドーム)でラグビーの試合を行わざるをえない状態となった。

関東ラグビーフットボール協会は、1947年頃から新しい専用ラグビー場を建築すべく、候補地捜しを開始。明治大学ラグビー部出身で関東協会理事であった伊集院浩が見つけてきた土地が、アメリカ軍による東京大空襲によって焼失した女子学習院(旧学習院女学部)跡地であり、当時のアメリカ軍の駐車場であった。難波経一、岡田秀平、鹿島建設(鹿島)の尽力で1947年4月に着工され、同年11月「東京ラグビー場」として完成した。杮落としは同年11月22日、明治大学OB対学生選抜と明治大学東京大学戦の2試合が行われた。また1949年1月に第28回全国高等学校ラグビーフットボール大会が行われた。ラグビー場が全国高等学校ラグビーフットボール大会の開催会場となったのは第28回大会のみである。

日本ラグビーフットボール協会名誉総裁だった秩父宮雍仁親王昭和天皇の弟)薨去の1953年、親王の遺徳を偲び「秩父宮ラグビー場」に名称が変更された。日本のラグビーにとっては「西の花園・東の秩父宮」と称され、日本ラグビーの聖地とも言える中心的な競技場である。ラグビーワールドカップ2019』においては試合会場として使用されず、日本代表の練習拠点として使われた。

<新秩父宮ラグビー場
2015年4月1日に東京都、日本スポーツ振興センター明治神宮の3団体が五輪後に再開発する計画を正式発表した。2021年1月15日、スポーツ庁ラグビー振興に関する関係者会議を開き、新秩父宮ラグビー場を完全密閉型屋根付きのスタジアムとする方針を決定した。
2022年8月22日、日本スポーツ振興センターは新秩父宮ラグビー場の整備・運営等事業について、民間事業者として「Scrum for 新秩父宮」(鹿島が代表)を選定し、収容人数はラグビー開催時が約1万5547人、コンサート等のイベント時は約2万547人に設定すると発表した。第1期工事が終了する2027年12月にオープンし、スタジアム全体の工事完了は2034年5月を予定している。

ちなみに花園ラグビー場の開場は1929年で、歴史的には花園ラグビー場の方が長いそうです。野球で言うと甲子園と後楽園球場の関係…ではないな。また、新秩父宮ラグビー場も密閉型で人工芝のスタジアムということが批判を浴びているとか。

あと、今回調べて「薨去(こうきょ)」という言葉を恥ずかしながら初めて知りました。皇族・三位(さんみ)以上の人が死去することで、「崩御」「薨御」に次ぐ表現なのだとか。